M&Partners Consulting || セミナー・コンサルタント・講演・英語研修 他

  • 会社概要
  • 代表メッセージ
  • リクルート
  • お問合せ
 
>> M&Partners International Home > Com. > 第2回 矢崎政男さん

M&Parners International トップページへ

ビジネスに役立つインタビューをWEBで連載中!!

コムドットを読む
 

クライアント様はもとより、通訳者、翻訳者などのパートナーの皆様と、よりインタラクティブな関係をもちたい。そんな願いで開いたコンテンツです。
毎回、様々な業界でご活躍のかたにご登場頂き、様々な角度からお話を伺っております。

矢崎政男さん プロフィール

山梨県生まれ。
1978年に日本電信電話公社に入社。マイクロ波回線の設計・建設・保守業務を経験した後、1985年からJICAの専門家としてグアテマラに赴任。
現地にて、無線伝送路の設備計画やルーラル地域への無線通信網拡充計画などのプロジェクトを支援。
グアテマラから帰国後、NTTの国際部門でブラジル現法の支援と中南米地域の技術協力を担当。
1994年から、JICA専門家としてチリへ赴任し、チリ国内の電気通信の人材育成拠点となる電気通信訓練センタープロジェクトに従事。設立したばかりのセンターにて、教官への技術移転を行う。
1997年にチリから帰国後、NTTドコモに転籍。国際部門にて海外PRなどを担当。
2001年1月からiモード企画部に勤務。海外現法や海外プロジェクトに従事している社員の支援を担当。
 

私たちの仕事は、どうしても時間に追われ、メールや電話でのやり取りが中心になります。そうすると、われわれM&PIのスタッフであっても、誰が私たちの先につながっているのか,つながっている人の顔も見ずに仕事をしていることが当然多くなります。それぞれフリーで独立している人たちが、私たちがハブになって、実はつながっているんだということを感じてもらいたくて、今回は、ハブの向こう側にいる素敵な人たちをご紹介します。一番最初のゲストにNTTドコモの矢崎部長をと思ったのは、二点あります。第一点は、M&PIのパートナーの方たちはすでに、国際的に活躍されたり、それを希望している方たちが多いのですが、そういう海外業務のパイオニアとして一から体験していらっしゃる先達のご苦労話や楽しいお話を聞かせていただきたいな、ということ。 第二点は私たちM&PIの歩みは移動体通信関連業務から始まり、現在もその方面での業務を多く頂戴いたしております。ちっちゃな会社であってもドコモさんのような会社に認めていただいて、それがこんな風に多くのパートナーの方たちにつながったのだ、ということを皆さんにおつたえしたかったことからご登場いただきました。
(インタビュー: 桃原則子)

001. グアテマラがどこにあるかも、何語を使っているかも知らなかった。

桃原 メーカーとかでしたらわかるんですが、通信事業者が海外に出て行くというのは何か違う色合いを感じるんです。まずは、そのあたりからお話を聞かせてください。

矢崎 NTTは1985年に民営化されたんですけど、電電公社時代から、政府の一組織としていわゆるODAの電気通信分野での技術協力に取り組んでいました。それはNTTになってからも引き継がれ、国際部門の中に海外技術協力専門家というようなグループがありまして、各分野の専門課がそこに集められていました。

桃原 それが、なぜグアテマラに。

矢崎 自分でも入社当時から海外で仕事してみたいなというのもあって、海外要員を育成する研修を受けたんです。その研修には語学研修も含まれていたのですけれど、英語が2人、スペイン語が1人の計3名の研修枠がありました。で、私が申し出たときには、すでに英語の枠は決まっていて、スペイン語だけしかなかったんですね。実は、スペイン語はやったことなかったんですけど、選択肢がなかったので仕方なくスペイン語の研修を受けました(笑)。でも、スペイン語との出会いはそれ以前にあったんです。学生時代に、スペインにギター留学している友達を訪ねて10日間ぐらい滞在したことがありましたので。耳に残っている言葉もいくつかあったのでやってみようかという気になったんですね。その上、ぼくは人のやらないことをやってみたい性分でしたので。忘れもしませんが、85年の1月、成人式の日ですね。家にいたとき、人事担当から電話があってグアテマラに行く気はないかと言われ、一晩で決めました。ただ、グアテマラってどこにあるか知らなかったんですよ、何語を使ってるかも知らなかったですし (笑)。で、学校で使うような地図帳を買ってきましてですね、人口とかデータを調べたんですよ。次女が生まれて半年ぐらいの頃でしたので、そんな乳飲み子を連れての赴任することに不安を感じましたが、女房は「人間が住んでいるところでしょ。大丈夫生活していけるわよ」と。いわば女房に肩を押されて決めたんです。女房は全然外国語はしゃべれないのにです。

桃原 奥様も立派でしたね。

矢崎 それは助かりましたね。私はさびしがり屋で単身赴任だとつぶれちゃいますから、家族と一緒に赴任することが大前提だったのですけれど、女房が前向きな性格なので、この一言は助かりました。

桃原 あちらでのお仕事は。

矢崎 向こうからの要請は、通信網計画、交換および無線通信の3名の専門家でしたが、私は無線の専門家としてグアテマラへ赴任しました。仕事は、現地のエンジニアやテクニシャンに無線の通信技術の技術移転が主な仕事でした。ネットワークの整備拡充のようなプロジェクトの実行は彼らが担当しますが、その過程で技術的なアドバイスをしていました。都市部の通信網設備は徐々に整備されつつありましたが、なんせルーラルエリア(農山村部)が多いんで、そこにどうやって通信手段を確保するかというのが問題だったですね。有線伝送だとラインで保守しなければいけないじゃないですか。だから、治安も悪くアクセスの便もよくないルーラルエリアは、有線では大変なんですよ。その点、無線だとポイントポイントの建設と保守ですみますから、こういった地域では、音声伝送のみが目的ならば無線の方が有利なんです。私が赴任した時は第二次ルーラーの計画がちょうど始まってましたし、また中米パンアメリカンマイクロ無線回線の設備更改するときだったので、それらのプロジェクトに関するアドバイス、それから、彼らが仕事をするツールがあまりなかったんですね。ですから、そういうものを前任者から引き継いで整備したりしました。

桃原 グアテマラってどんな国なんですか。

矢崎 一次産業の国ですよね。コーヒーだとか、綿花だとか。で人口の60%以上が純粋のインディオなんですね。緯度的にはフィリピンと同じくらいなんですけど、首都は標高が高く、過ごしやすいところです。

 

002. 性格が180度変りました。人がどう言うか気にならなくなりました。

桃原 私も留学経験があるんですけど、毎日毎日泣いてました。そういう孤独感や言葉はどうやって克服したんですか。

矢崎 赴任した当時は、スペイン語でコミュニケーションするのはつらかったですね。赴任前に語学学校に通っていたんですが、最後の授業の時に、コロンビア人の先生に「来週から行くんだ」と言ったら、「可哀想に」と真顔で言われたんです。何でかっていうと、「あなたは目は見えても何が書いてあるかわからないし、相手の言っている言葉もわからないし、日本語はしゃべれてもスペイン語しゃべれないでしょ」って言われて。ぼくは桃原さんみたいに勤勉なタイプじゃなかったんですよ。わからない単語があっても辞書をいちいち引くようなことはしなかったし。でも、だから今までスペイン語がいやにならずに続けてこれたと思ってます。でも、珍しくまじめにスペイン語を勉強した時期がありました。毎朝、事務所の前のスタンドで新聞を買っていましたが、その新聞を貸してくれと私のカウンターパートたちが言ってくるんです。そこで僕は条件をつけたんです。夕方まで貸しておくから、1ヵ所だけ、僕におすすめの記事を赤丸をつけて置けと。で、ふざけて変な記事にマークがついてることもあるんですけど、それだけはまじめに読みましたね、ちゃんと辞書を引いて。語彙ってあるときガッと増えますよね。で伸びたら止りますよね。向こう行って3ヵ月くらい、まるで相手の言っていることがなかなか理解できなかったんですけど、その頃から徐々にわかるようになってきました。わからないことは、聞くと彼らが教えてくれましたし。スペイン語学校へ行こうと思ったら、カウンターパートが語学学校の講師をしている自分の彼女を紹介してくれて、日本のことを教えてくれれば授業料はいらないと無料で教えてくれまして。それと歌も好きだったんで、それが語彙を増やすのにも役立ちました。スペイン語は発音とつづりが一致するんです。なので、レコード買うと、それを一生懸命書き取って。実は後でわかったんですけど,歌詞だけ、別に売ってたんです(笑)。

桃原 生活やご家族、お子さんはどうでしたか。

矢崎 子供たちは明るかったし、のびのび育ちましたね。女房も外交的性格なので、言葉も話せないのに、友達はいっぱいつくってました。面白い話があって、女房のアメリカ人の友達が遊びに来たとき、小さな箱を持ってきたのですけど、女房が「それ何?」というのをスペイン語で「Que?(ケッ)」って聞いたんです。そうしたら、その友達は英語で「Yes, it’s cake」って答えたんですね。横で聞いていた私は大笑いでしたけど、当の二人は私が何で笑っているのかわかっていない。女房の言ったスペイン語の「ケッ」が友達には英語の「ケイク」に聞こえたのだと二人に説明してあげたんです。でも、言葉を話せなくともいっぱい友達を作る女房を見ていて、言葉と言うのは、コミュニケーションをとるための手段に過ぎないということを痛感しました。相手を理解しよう、自分をわかってもらおうという気持ちは、言葉というツールより勝るんですよね。それと、間違うことを恐れてはいけないということですかね。ネイティブではないのだから、間違っても当然というような、ある種の開き直りが必要なのかもしれませんね。一方、子供たちはあっという間に覚えました。現地の幼稚園に通わせていましたし、帰宅してからはコンドミニアムの庭で友達と遊ぶのもスペイン語を使っていましたから。毎日使っていると上達は早いんですよね。

桃原 私は自分が、何としてでもしゃべれるようになって帰らなくちゃって悲壮感が ありましたけど、パーソナリティのなせる技というのもあるんですかね。

矢崎 グアテマラでの2年間の生活を経験して、ぼく自身ものすごく変わりました。女房が一番驚いてましたね。僕は元来、もっとぎすぎすした人間で、その上、「嫌」と言うことができない人間だったんですよ。彼らは平気で嫌だと言うんですけど、それができなかったですね。相手に対して「いや」と言うと、日本人同志だとものすごく関係悪くなるじゃないですか。だけど彼らは、「あいつはいやなんだ」って思うだけなんですね。一人の個人の考えとして受け止めてますから。「いや」と言えるようになったお蔭で、周りの人が自分のことをどう思っているのか気にならなくなりましたよ。

桃原 グアテマラの後は。

矢崎 グアテマラには、ちょうど2年いました。戻ってきてからは、新入社員の育成担当の仕事をした後、NTTのブラジル現地法人や中南米に派遣されている技術協力専門家の後方支援の仕事を3年ほど担当していました。そうこうするうちに、チリで、技術協力の話がありましてチリに行きました。技術協力って2つのタイプがあるんです。専門家が個別でやる場合と、プロジェクト形式で人と物とお金を集中させて協力する場合があります。チリの場合はその後者でした。上司から、チリにいかないかと言われて、女房に相談したら「行こうよ」との一言でしたよ。子供たち、とくに長女はちょっとといやがりましたけど、行ったら行ったで、チリの生活を楽しんでいるようでした。