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>> M&Partners International Home > Com. > 第6回 紫垣美智子さん

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ビジネスに役立つインタビューをWEBで連載中!!

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クライアント様はもとより、通訳者、翻訳者などのパートナーの皆様と、よりインタラクティブな関係をもちたい。そんな願いで開いたコンテンツです。
毎回、様々な業界でご活躍のかたにご登場頂き、様々な角度からお話を伺っております。

紫垣美智子さん プロフィール

神戸生まれ。
神戸大学卒業後、プロクター&ギャンブル社勤務。その後米国のSITにて言語教育学を専攻、修士号取得。後に、サンフランシスコ州立大学のスピーチコミュニケーション学部で異文化研究を専攻。米国の企業やコミュニティカレッジなどで日本語を教え、翻訳・通訳業に転向。以来、シリコンバレーを中心にハイテク、電気通信、公共事業、金融、建築、農業など多分野の仕事に恵まれ、現在もアクティブに活躍中。


 

サンフランシスコ(以下SF)で、ご主人と一緒に通訳・翻訳の仕事をなさっている紫垣さんは、私どもM&Partners(以下M&PI)の海外ネットワ−クの中でも、アメリカのハブともいえるほど、頼りになるお仕事をしていただいています。今回は、紫垣さんに、アメリカから見た日本の通訳・翻訳の仕事、アメリカでの業務の苦労やこれからの課題、そして今後海外で、あるいは海外とのネットワークの中で仕事をしたいと考えている方たちへのアドバイスなどを伺ってみました。
(インタビュアー M&PI 石田裕美子)

001. 日本語を外国語として見ること自体が、私には新鮮な面白いことでした。

石田 最初にお伺いしますが、紫垣さんはSFにいらっしゃってどのくらいになるんですか。

紫垣 もう20年を超えてしまいました。一番最初は学校へ行ったんです。バーモントっていうちっちゃな州で1年ほど学生生活を送りました。その後、カリフォルニア州のモデストという、ここから2時間ぐらいののどかな農業の町みたいなところに行きました。実は私、英語を教えるための勉強をするというのがそもそもの出発だったんです。バーモントの学校に行ったのは1年間でマスターが取れるという学校があったからなんですけど、日本に帰って英語の先生になろうと考えていました。ただそれにはやっぱり英語をブラシュアップしないとダメだと思って、それでアメリカに来たんです。

石田 それ以前に先生のご経験は。

紫垣 教職も取って、教えるというのは大学を卒業する頃から選択肢の一つに入ってはいました。でも高校や中学の先生になることは考えなかったんです。もっと一般に英語を道具として教えたいなと思って。でこっちに来てみたら、英語を教えるために勉強しているアメリカ人と、自分とでは差があり過ぎますよね。だったら日本語教えた方がいいと思って、バーモントでは、アメリカで日本語を教える資格も取れたんで、それも取ったんです。モデストでの仕事は、P&Gという会社が日本に工場を作るために、製造担当者やエンジニアを送ることになっていて、そういう人たちと彼らの家族に日本語を教えるのとともに、日本からは、彼らと一緒に仕事をする立場の人たちが家族と来ていて、文化の教育と言葉の教育をしていたんです。アメリカ人は日本語を習う、日本人は英語を習う、さらにお互いにお互いの仕事のやり方、考え方を文化を習いあうというものすごく面白いプロジェクトで。でもそこで全体を見ているうちに、日本語を教えるっていう中に、やっぱりいろんな文化の違いとか、ビジネスの違いということを入れながら教えていかなきゃいけないことに気がついたんですね。でその頃、SF州立大学に異文化教育でとても高名な先生がおられて、それで私また、州立大学に入って勉強したんです。日本語を教えるに当たって,日本語を外国語として見ることが、先ず私には新鮮な面白いことでした。それにビジネスカルチャーの違いとか。日本人の生活の中にある価値観とか考え方、いろんな違いがありますよね、そういったものを、自分が人と接しながら、自分が教える身で、同時に学んでいくっていうのは面白かったですね。だからこれを一生の仕事にしてこうと、その時は思ったんです。

石田 それがどうして通訳・翻訳ということになったんですか。

紫垣 日本語熱がはじけるすぐ手前ではあったんですけど、まだ日本語を教えるだけでは食べていけなかった。私は、シティカレッジというところの夜のコースで教えてたんですが、本当に日本とビジネスをしたいビジネスマン、ビジネスウーマンの方が多かった。そこで時々翻訳を頼まれたり、それからSF市内でお昼の時間に何組か日本語を教えていたんですが、そういうところで、ちょっと翻訳お願いとか、ちょっとお客さん来るから通訳して、とかいう話になって。それをやっていたら翻訳、通訳とかが増えてきて。そこにシリコンバレーが登場したんです。ただ、ある時、先生とアルバイトが両立できなくなってしまったんです。日本語ブームで日本語も忙しくなり、アルバイトの方もシリコンバレーがどんどん活気を帯びてきてとても両方をやっていくことはできない。それでどちらかを選ばなければならなかった時に、結局通訳・翻訳を取ったんです。

 

002. 保守的な商習慣や会社の文化習慣が残ってますよね。

石田 日本の商習慣との違いに、戸惑うこともあったんじゃないですか。

紫垣 その頃は、学校に行きながら勉強しながらだったんで、戸惑うよりも、何か発見が楽しかったんです。そうだこういうことが違うんだとかね。なんかすごく一番生き生きしていた時代かもしれません。

石田 こちらには、通訳の協会のようなものはあるんですか。

紫垣 きっちりとした協会はありませんけど、アメリカ各地に通訳グループはありますね。最初は帰国子女、例えば昔お父様がこちらで仕事をしていた関係で住んだことがある、といった、もともとすごくバイリンガルな方たちが通訳を始め、それが徐々に通訳としてのプロ意識を育てるために後輩の面倒をみる方たちも出て、つまり、通訳業界の質というのを大切にし、そのために優秀な仲間を増やして行く努力があった。プロとしてのプライドを持って仕事をしなければならない意識が芽をふいた感じで、それで通訳のネットワークが少しづつ育ち始め、技だけでなく報酬とかいろんな環境を、こういう風な形でやるべきなんだというコンセプトみたいなものを、自分たちで作ってみんなに広げていかれたようなんです。それまでは、もう本当に、駐在員の奥様に、誰もいないからちょっとやってくれ、そこの学生さんやってくれ、みたいなのが多かったと聞いています。記憶が定かではないんですが、15、16年前くらいに、ここで通訳されてた方がある学校に通訳・翻訳科を設けられて、ここ数年はそこに行って勉強された方が通訳として出てきてます。だから、何もないところから通訳業に入るのは最近難しくなってきてますよね。

石田 今、日本の企業が外国の企業とパートナーシップを組みビジネスを行うケースが増えていますよね。紫垣さんの目にはこういった動きは、どのように映っていますか?

紫垣 日本との合弁企業で、出資率にかかわらず、アメリカの経営が入っていくと目に見えて変わっていくなと思います。日本にはキメの細かさがあるし、アメリカは荒削りだけどおおらかという気質があって、お互いが役割分担していくことの面白さと難しさがありますね。それと、日本人の国際化というのはすごく進んだと思うんだけど、たとえば年功序列制がだんだんなくなってきていると言いつつも、やっぱり日本から来られた方のグループの中には、会社の方々の組織の現れ方がこちらとは全然違うなという感じがまだよく見うけられます。一番偉い方が先に話をされて、順々に担当者が話をしていくので、自分のところまでは口を出していけないとか、そういう保守的な商習慣や会社の文化習慣が残ってますよね。世界の開け方と同じ速度ではない感じがちょっとあるような。時々日本の保守性だったり、構造的な古さっていうのが現れたりして、そういったものがアメリカ人に理解されない場面もあります。交渉面なんかですと、すごく頑張ってすごく頑なに、ここまでの線というのを言い張ってきたのを、最後に突然譲歩しちゃったりするんですよね。日本て、ここまでは妥協するけどここが最後だというようなことを会社で決めてきたりするじゃないですか。そこを最後の砦にしていて、その砦のかなり手前を固持して折衝して、アメリカ人が、じゃあもうしようがないか、このあたりで手を打つしかないのかなという表情が見えたところで、突然最後の砦の線に降りてくる。折衝中には決して譲歩の範囲として認めてなかったのに。アメリカの方もびっくりしますよね、この突然の譲歩には。初めの頃はわからなくて、通訳してる私たちもびっくりしたり、折角いいところまでいってたのにどうしてと思ったりしました。でもいろいろな思惑があり、折衝や譲歩の出し方にも国際色があることを学びました。