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>> M&Partners International Home > Com. > 第14回 中曽根俊さん

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ビジネスに役立つインタビューをWEBで連載中!!

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クライアント様はもとより、通訳者、翻訳者などのパートナーの皆様と、よりインタラクティブな関係をもちたい。そんな願いで開いたコンテンツです。
毎回、様々な業界でご活躍のかたにご登場頂き、様々な角度からお話を伺っております。

中曽根俊さん プロフィール

1964年生まれ。
1987年ウェストヴァージニア大学卒業。近畿日本ツーリスト株式会社、株式会社矢野経済研究所、海外のホテル勤務などを経て、1993年よりフリーランスの通訳・翻訳者として、NHK衛星スポーツでアメリカ3大スポーツ中継番組やCNNワールドスポーツなどに携わる。2003年より千葉ロッテマリーンズ球団でバレンタイン監督専属通訳として活躍中。
 

今回ご紹介する中曽根さんは、私がずっと注目し続けている通訳者です。 私が中曽根さんウォッチャーとなったきっかけは、2005年のシーズンにさかのぼります。日本シリーズを目指したプレーオフ、ソフトバンクと戦ったロッテは、第1・2戦を制します。ところが第3戦、優勝に王手がかかったと思われたとき、大逆転を許しサヨナラ負け。続く第4戦も落としてしまいます。勝敗を決する第5戦、敵地ヤフードームで8回までリードされていながら、1死2塁から放った逆転2点2塁打で、31年ぶりの優勝を果たします。 その奇跡的な一連の逆転劇での通訳ぶりは、まさに見事というものでした。今回はあのようなプレッシャーの中で、パーフェクトな通訳をした中曽根さんに、その精神力や交渉術の秘密を伺いたいと思います。
(インタビュアー M&PI 桃原則子)

001. プレーオフを制した衝撃の逆転劇の舞台裏

桃原 私は中曽根さんウォッチャーだったので、今日は念願がかなってうれしいです。
第5戦のとき、ソフトバンクファンは当然優勝だと思って来ているわけです。あれだけの大観衆の異常な興奮の中、通訳だって人間ですから平静ではいられないと思うのです。でもあの時の中曽根さんのパフォーマンスはとてもすばらしかった。
私は、仕事柄今まで何百人もの通訳の方にお目にかかってきましたが、“うまいな”と思う方は確かに大勢いらっしゃるのですが、“すごいな”と思う方はあまりいないんです。でも、中曽根さんの通訳は“すごい”と感じました。

中曽根 ありがとうございます。でも“すごい通訳”とは何でしょう?

桃原 緊張を強いられるシーンでもアウトプットが早く、言葉が適切、スピードも速いことでしょうか。こう言うと当たり前のように聞こえますが、これは余程、精神力が強くないと無理だと思います。私も過去、世界陸上などのスポーツイベントでの通訳の経験があるからわかるのですが、ずっとチームといると、通訳だってエキサイトするし涙もでます。でもそこで通訳が言葉をうわずっていたらしょうがないわけです。ご自分の精神のコントロールはどうなさっていたのでしょう?

中曽根 僕もみんなもそうだったのですが、実は勝ったことがないチームだったので、どうしたらいいのかわからなかったんです。

桃原 31年ぶりでしたものね。

中曽根 他球団にいた人は別ですが、チームの多くが優勝を経験したことがないんです。2勝して優勝に王手がかかって、あと1勝というときも何が何だかよくわかっていなかったんです。だから第3戦で負けた時も、まだ次があるみたいな感じで・・・。

桃原 余裕があったということですか?

中曽根 余裕があったと言うか・・・、よくわからなかったとしか言いようがないですね。たとえば優勝が迫ってきたときに、本来はベンチ入りしていない選手がベンチに入ってくるんですよ。普通は余裕をもって座っているところに、「電車に乗らないから、そんな風に座ったことないだろ!?」というくらいぎゅうぎゅうに座るんです(笑)。そこで同点に追いつかれちゃうと、またぞろぞろ出て行く・・・なんてことをやっていました。これからどうなるんだろう・・・という不安定な雰囲気がそこに存在していたんです。

桃原 そんな時の精神力が通訳のパフォーマンスに響くと思うのですが。
私事で恐縮ですが、以前CNNで首相になる直前の政治家の方の通訳をしたことがあるんです。大変な注目度でムービーカメラも多い状態でした。そうしたら2つめの質問を受けたときに急に言葉が出てこなかった経験があるんです。いつもの自分じゃないような感じになってしまいました。

中曽根 わかります。ありますよね。

桃原 その時に健康管理やメンタル管理がとても大事だなあと実感しました。だから、優勝インタビュー時の中曽根さんもそんな精神状態のはずなのに、落ち着いていらしたことに感服したんです。

中曽根 あの時はそういうプレッシャーを感じるひまがなかったような気がします。
優勝した瞬間は、みんな一斉に飛び出しながら、60人くらいが男泣きしているんです。気が緩んで、僕も誰の顔を見ても泣けてくるし、うれしくてしょうがないんです。でもどこかで「泣いていると話せない」という気持ちはありました。

桃原 やっぱり!

中曽根 しかも初めてなので、監督インタビューがいつ始まるかわからないんですよ。もちろん胴上げのタイミングもわからない。あとでそのシーンをテレビでみたら、解説者が「胴上げはしないんですかねえ?」と、言っているんです(笑)。
胴上げのあとは、みんながレフトスタンドに行っているので、僕もついていってしまいました。そうしたら、いつのまにかお立ち台が用意されていて、監督がまさに上がろうとしているんです。それで大声で呼ばれてレフトから全力疾走ですよ(笑)。通訳している時は、涙よりも汗がでてたいへんでした。

桃原 あの感動シーンにそんな裏話があったのですね。でもインタビューでは息も切れていないし、沈着冷静でした。

中曽根 そう見えましたか? 監督もそうですが、僕も感極まっていたんですよ。僕は一瞬先に英語が入ってくるので「ああそうだな」と思いながら訳してるんです。あの時は、監督が言っていることをそのまま伝えたいと思っていました。

桃原 特にすばらしかったのは、アウトプットが早かったこと。そして、えーとか、あーとかいうノイズがなかったことです。うわずるとノイズがでるものですよね。もうひとつは、同じ言葉を繰返すということもなかったことです。どこか違う場所で同時通訳をやっているのでは、と思ったくらい冷静な通訳だと感じました。あんな状況で、あんなパーフェクトな通訳はいないんじゃないかと思いました。

 

002. 英語が話せる父親の姿にあこがれた少年時代

桃原 そもそも英語への興味をもったきっかけを教えてください。

中曽根 父が外資系の会社に勤めていて、その年代にしては英語がしゃべれたんです。同僚や上司にアメリカ人やイギリス人もいたので、ホームパーティーや会社の催しなどで家族も会う機会があるんです。会うと言っても小さい頃ですから、僕は話なんかできませんが、父が英語で話しているのを見て「ああいいな、おもしろそうだな」と思ったんです。
でも実際に英語を勉強し始めたのは、普通に中学になってからです。ただ、中学入学直前に家の近所にあった英語教室に通い始めました。その先生というのが、イギリス留学や通訳の経験もある、こだわりを持ったちょっと独特な人でした。今思うと偏屈な人だったんですね(笑)。当時はそんなに生徒がいなくて、ほとんどマンツーマンで教えてもらって英語がおもしろいなと感じられるようになったんです。

桃原 先生って大事ですよね。

中曽根 興味を持つともっと知りたくなり、知るとより面白くなります。そうなると学校の授業が楽なんですよ。予習しなくても授業がよくわかる。今思うと英語教室と授業が反復練習のようになっていたんだと思います。なので、英語だけは成績も良かったんです。

桃原 好きになるということが、スタートですよね。

 

003. 英語だけが得意だったことからアメリカ留学を決意

中曽根 それで高校に入ると、父が「留学事典」というのを買ってきたんです。

桃原 高校に入ったら次は留学だというわけですね。

中曽根 こっちは入ったばかりですから、そんなことは考えられないですよ。それでそのままほっといたのですが、さすがに3年になると進路を考えなければならなくなります。あいかわらず英語しかできなかったので、他の教科を勉強するのは無理だから留学でもするか、という気持ちになったんです。

桃原 それじゃあ、消去法だったんですね。

中曽根 完全に消去法です。それを父に話すと、嬉々として「留学事典」の最新版を買ってきたんです。

桃原 一般に日本のお父さんは、日本の大学に行けと言う人がほとんどです。留学するなら大学に入ってからか、出てからにしろと言うことはあっても、向こうの大学に行けと言う人はまずいません。

中曽根 父は戦後、軍のキャンプに行って勝手に英語を覚えたような人ですから、本当は自分が若い頃留学したかったんだと思います。でも戦争があって果たせなかった。だから僕には「行け、行け」という感じでした。それでウエストバージニア大学に留学しました。

 

004. 人との出会いをチャンスに代えてスポーツ通訳の道を開く

桃原 今は留学する人って減ってきているんですよ。費用的な面もあるのでしょうが、帰ってきてその経験を生かして働く道が少ないというのもあるようです。中曽根さんのようにスポーツ通訳になりたいと言う人はいっぱいいるんですけれど。その高い競争率を考えて最初から諦めてしまう人も多いと思います。最初からスポーツ通訳を目指されたのですか?

中曽根 いえ、普通に就職しました。通訳になったのは、そこでの人との出会いがきっかけでした。
そもそもは最初に就職をした会社の同期だった人が、NHK衛星放送の大リーグ中継の翻訳・通訳をやっていたんです。大リーグが目立ちますけれど、実はアメリカの3大スポーツを全部放送している番組で、アメリカンフットボール、バスケットと1年を通してずっとスポーツを追いかけているんです。僕はその話を聞いたときに海外にいて、帰国するにあたって「1年中スポーツを見ていられるなんて夢のような仕事だなあ」と思ったわけです。それで職場に空きがないか聞いてもらったんです。通訳というと、ちゃんと資格をとってという方が多いのでしょうけれど、僕は資格も持っていないんですよ。

桃原 3大スポーツの何かをやっていたというわけでもないのですね。

中曽根 見るのは昔から好きでしたけれど。運が良かったんですね。

桃原 そうはいっても、いいパフォーマンスをしない方には仕事はこないわけですから、当時から実力がおありになったんだと思いますよ。

中曽根 ちょうどNHKの仕事を始めた翌年に、野茂選手が大リーグに行ったんです。そこで日本での注目度もあがって、録画中継だったのが夜中にライブでやるようになりました。当時、僕はフリーの契約でしたので、NHKの他にも登録して仕事をしたり、横のつながりから仕事を紹介してもらったりしていました。
そのひとつが2000年のメッツとカブスの開幕戦の通訳で、メッツのチーム付きの通訳に割り振られたんです。当時のメッツの監督がボビー・バレンタインで、僕はそこで初めて監督に会ったんです。

桃原
 それが運命の出会いだったわけですね。

中曽根 といっても監督は以前に日本のチームの監督をしていたので、彼なりのコネクションもあって、イベント期間中は監督のお世話はほとんどしませんでした。もっぱら選手たちが、「秋葉原に行きたい」とか「MIZUNOの本物が欲しい、どこで買えるか」みたいなことが多かったですね(笑)。でもそれでコネクションができたわけです。
ちょうどその年から、監督が毎年12月に開かれる「キッズスポーツサミット」という小学生を対象にしたイベントに協力することになったんです。これは各スポーツの著名人が小学生を教えてあげようというイベントで、何人ものプロが参加していました。監督はイベント全体の代表にもなったため、急遽通訳が必要ということになり、12月に入ってから事務局から「空いてないか?」と連絡がはいったんです。

桃原 それは本当に急ですよね。

中曽根 それでも当然「空けますから!」と応えました。

桃原 それが毎年続いたんですか?

中曽根 3年間続きました。初めから3年と聞いていたわけではなかったのですが、翌年になるとまた、という感じで話をいただきました。毎年3、4日間ですが監督にお会いすることになって、少しずつ知り合っていったわけです。そして、松井秀喜選手がアメリカに行った年に僕たち夫婦も試合を見にNYに行ったので、監督に会えないかなと思って向こうで電話をしてみました。

桃原 そうやって突然会えちゃうものですか?

中曽根 会えませんでした(笑)。ちょうど忙しい時期だったみたいでした。その後メールのやり取りを続けました。

桃原 監督はメールをされるんですね。

中曽根 やり取りと言っても、10数回出すと、1回戻ってくるという感じです(笑)。NYに行ったのが夏の終わりで、秋になってから監督がロッテに来るということが報道されました。

桃原 じゃあ、ロッテ側が獲得に動いている時は知らなかったわけですね。

中曽根 そうです。お祝いの連絡をした時に、就任前に来日するのでどこかで会えるといいね、なんてやり取りをしていたんです。そうしたら突然「おまえ通訳の面接くる?」っていうメールが届いて。

桃原 監督から。

中曽根 はい。「そりゃあ、行くでしょう」って。それが11月半ばくらいのことで、それから2週間くらいでとんとん話が進んで、最終的には12月1日に、専属通訳としてロッテと契約してもらえました。

桃原 これは運ではなく、中曽根さんの人柄と実力、行動力ですね。でも今の中曽根さんがあるのは、ある意味では、お父さんが導いたということではないでしょうか。

中曽根 父のおかげであり、英語教室の先生のおかげでもあり、NHKの仕事を紹介してくれた元の同僚のおかげでもあります。そういう人たちに恵まれたから、この道に進めたと思っています。